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口美庵 kuchimi-an ~シドニーゲイの日々

口美庵 kuchimi-an ~シドニーゲイの日々

vol, 17 「誕生日おめでとう」

 コーヒーの飲み過ぎで眠れない。もう午前3時近いのに目が覚めている。なんてことだ。今日は姉の誕生日だった。あ、もう一日過ぎてる。ま、いっか。8つ年上の姉、私に姉がいることはあまり知られていない。もうこの世にいないからだ。十数年前に亡くなった。私が14、彼女が22のときだった。それはあまりにも突発的な出来事で、当時まだ中学生だった私は、事態を受け入れることが出来ず、本気で泣いた記憶が無い。意識不明の彼女が病院に担ぎ込まれた翌日の遠足にどうしても行きたかった私は、そして彼女が意識を取り戻して何事も無かったように帰ってくると信じた私は、一人家に帰った、遠足の準備のために。歯を磨き、パジャマに着替え、私はいつものようにベッドにもぐった、当時飼っていた猫のチャチャも一緒に。

 午前12時前、布団の上で突然跳ね起きた猫が玄関先へと走った。今も鮮明に覚えている。玄関のドアの前に立ち止まり、けたたましく鳴き始めた、初めて聞くような声だった。近所迷惑だからと、止めようにも言うことを聞かない、なおも鳴き続ける。きっと外に出たいのだろうとドアを開けようとした途端に、激しく電話が鳴った。心臓が口から出てきそうなほど驚いた。なんとか深呼吸をして、数回鳴り続けた受話器をようやく手に取った。

「最期やから来い」

 父の言葉がひどく残酷に聞こえた。私はパジャマにジャンパーを重ねて家を飛び出た。いつの間にか猫は鳴き止んでいた。雨が降り出した交差点で、タクシーに飛び乗り、日赤病院を告げると、運転手は何も言わずに急いでくれ、数分で表玄関に着いた。私は暗い病院の中を気にせず駆け抜けた。パジャマのままで。たどり着いた病室の中は重い空気が流れ、母は既に泣きじゃくっていた。私は母の肩に手をかけて、モニタの心拍数を眺めていた。誰も口を聞かなかった、父も、母も、兄も、祖母も、誰ひとり。その重苦しい時間が果てしなく続くように思えた。覚悟をしておいてくれと、主治医の冷たい説明があった。病室の外で看護婦同士が小声で何かを話し、一人がクスリと笑い、ものすごい形相で兄が睨みつけた。みんな気が立っていた。

 数十分後、姉の心拍数に乱れが生じた。冷たい主治医と笑った看護婦が駆けつけ、心臓マッサージを施した。別の看護婦が大きな装置を持ってきて、電気ショックを続けざまに与えた。何度も、何度も。その度に姉の体は大きく揺れ動き、見ているのが辛かったけれど、最期まで見届けようと歯を食いしばった。それしか出来なかった。いつの間にか私は泣いていた。何度目かの電気ショックの後、モニタの緑の線が横一線になって、終わりを告げた。姉は死んでしまった。姉の目から涙がこぼれていた。それを見てまた泣いた。ただ涙がこぼれた。

 あの時、どうして本気で泣けなかったのか、母のように嗚咽を吐きながら泣きじゃくることが出来なかったのか、兄のようにどしゃ降りの屋上で泣き続けれなかったのか、未だに不思議に思う。私は冷酷な人間で、姉のことも好きじゃなかったのかも知れない、と思ったこともあった。実際、姉が死んだ直後、「これで明日の遠足は行けないな」と思った程だ。けれど、それは冷酷とか非情とかそういうのではなくて、姉の死を冷静に受け止めるのに、私はあまりに若過ぎたのだと思う。14歳の中学生に、姉の死は実に過酷であった。

 あれから十数年が経ち、私は当時の姉の年齢も超えた。時が経つにつれ、姉の顔や、声や、しぐさや癖が、記憶から薄れていくのがとても悲しい。夢に見ることさえも無くなった。きっとみんなの記憶からも薄れているのだろう。切ないけれど仕方の無いことなのだ、私たちは今を生きているのだから。けれど今日は、昨日か、は彼女の誕生日だったわけで、実家の仏壇に線香でも立ててもらおうと、みんなにも思い出させてやろうと、電話をかけたところ、ばあちゃんが開口一番、「今日、誕生日やな」と私に言った。泣きそうになったが「うん、そうやな」と答えた。

 偶然にも今日、昨日(もうええって)、1月28日は、私と旦那の一周年記念日(はやっ)で、仕事の後に近くのレストランに行き、ちょっと高めのワインを開け、なんとか(?)一年もった二人に乾杯をして、そして姉にも乾杯をした。帰る途中で止めたはずのタバコを買った。お家のベランダに旦那と腰掛けて、3本のタバコに火をつけ、3つのコーヒーを入れた。旦那と、私と、そして姉のために。キャビンマイルドと砂糖とミルクの入った甘いコーヒー(姉はかっこつけてブラックを飲んでいたが、ホントは甘いのが好きだったのを私は知っている)。毎年この日はいつもこうしている。私なりのセレモニーだ。こんなことに付き合ってくれる旦那に感謝した。

 姉はもうこの世にはいない、けれど確実に私の側にいる。22歳のときのままで。今日ぐらいは夢に見るかも知れない。たまには顔を出してくれないと困る。けれど、もう午前4時前、まるで眠気も起こらず、こんな長文を達筆している私はなんなんだろう。姉ちゃんの嫌がらせかも知れない。あいつならやり兼ねない。タバコをもう1本吸うことにする。


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